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在りし日の歌


在りし日の歌

 含 羞
 むなしさ
 夜更の雨
 早春の風
 
 青い瞳
 三歳の記憶
 六月の雨
 雨の日
 
 春の日の歌
 夏の夜
 幼獣の歌
 この小児


 冬の日の記憶
 秋の日
 冷たい夜
 冬の明け方
 老いたる者をして
 湖 上
 冬の夜
 秋の消息
 
 秋日狂乱
 朝鮮女
 夏の夜に覚めてみた夢
 春と赤ン坊
 雲 雀


 初夏の夜
 北の海
 頑是ない歌
 閑 寂
 お道化うた
 思ひ出
 残 暑
 除夜の鐘
 雪の賦
 わが半生
 独身者
 春宵感懐
 曇 天
 蜻蛉に寄す

亡き児文也の霊に捧ぐ

含 羞
     ――在りし日の歌――


なにゆゑに こゝろかくは羞ぢらふ
秋 風白き日の山かげなりき
椎の枯れ葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり

枝々の 拱みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき

椎の枯れ葉の落窪に
幹々は いやにおとなび彳ちゐたり
その日 その幹の隙 陸みし瞳
姉らしき色 きみはありにし

その日 その幹の隙 陸みし瞳
姉らしき色 きみはありにし
あゝ! 過ぎし日の 仄燃えあざやぐをりをりは
わが心 なにゆゑに なにゆゑにかくは羞ぢらふ……


含羞(はぢらひ) 羞(は)ぢ 彳(た)ち 拱(く)み 隙(ひま) 仄(ほの)
index
むなしさ


臘祭の夜の 巷に堕ちて
 心臓はも 条網に絡み
脂ぎる 胸乳も露は
 よすがなき われは戯女

せつなきに 泣きも得せずて
 この日頃 闇を孕めり
遐き空 線条に鳴る
 海峡岸 冬の暁風

白薔薇の 造化の花瓣
 凍てつきて 心もあらず
明けき日の 乙女の集ひ
 それらみな ふるのわが友

偏菱形=聚接面そも
 故弓の音 つづきてきこゆ


臘祭(らんさい) 巷(ちまた) 堕(お)ちて 絡(から)み 脂(あぶら)ぎる 胸乳(むなぢ) 露(あら)は 戯女(たはれめ) 孕(はら)めり 遐(とほ)き 白薔薇(しろばら) 花瓣(くわべん) 集(つど)ひ 偏菱形(へんりようけい) 聚接面(しゆせつめん)
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夜更の雨
   −ヹルレ−ヌの面影−


雨は 今宵も 昔 ながらに、
  昔 ながらの 唄を うたつてる。
だらだら だらだら しつこい 程だ。
 と、見るヹル氏のあの図体が、
倉庫の 間の 路次を ゆくのだ。

倉庫の 間にや 護謨合羽の 反射だ。
  それから 泥炭の しみたれた 巫戯けだ。
さてこの 路次を 抜けさへ したらば、
  抜けさへ したらと ほのかな のぞみだ……
いやはや のぞみにや 相違も あるまい?

自動車 なんぞに 用事は ないぞ、
  あかるい 外灯なぞは なほの ことだ。
酒場の 軒灯の 腐つた 眼玉よ、
  遐くの 方では 舎密も 鳴つてる。


図体(づうたい) 護謨合羽(かつぱ) 反射(ひかり) 巫戯(ふざ)け 外灯(ひ) 軒灯(あかり) 舎密(せいみ)
index
早春の風


  けふ一日また金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

  女王の冠さながらに
 卓の前には腰を掛け
かびろき窓にむかひます

  外吹く風は金の風
 大きい風には銀の鈴
けふ一日また金の風

  枯草の音のかなしくて
 煙は空に身をすさび
日影たのしく身を嫋ぶ

  鳶色の土かほるれば
 物干竿は空に往き
登る坂道なごめども

  青き女の顎かと
 岡に梢のとげとげし
今日一日また金の風……


一日(ひとひ) 卓(たく) 外(そと) 嫋(なよ)ぶ 鳶色(とびいろ) 女(をみな) 顎(あぎと)
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月


今宵月は茗荷を食い過ぎてゐる
済製場の屋根にブラ下つた琵琶は鳴るとしも想へぬ
石炭の匂ひがしたつて怖けるには及ばぬ
潅木がその個性を砥いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!

さてベランダの上にだが
見れば銅貨が落ちてゐる、いやメダルなのかア
これは今日昼落とした文子さんのだ
明日はこれを届けてやらう
ポケットに入れたが気にかゝる、月は茗荷を食ひ過ぎてゐる
灌木がその個性を砥いでゐる
姉妹は眠つた、母親は紅殻色の格子を締めた!


茗荷(めうが) 済製場(さいせいば) 琵琶(びは) 怖(おぢ)ける 砥(と)いで 紅殻色(べんがらいろ)
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青い瞳


   1 夏の朝

かなしい心に夜が明けた、
  うれしい心に夜が明けた、
いいや、これはどうしたといふのだ?
  さてもかなしい夜の明けだ!

青い瞳は動かなかつた、
  世界はまだみな眠つてゐた、
さうして『その時』はすぎつつあつた、
  あゝ、遐い遐いい話。

青い瞳は動かなかつた、
  ――いまは動いてゐるかもしれない……
青い瞳は動かなかつた、
  いたいたしくて美しかつた!

私はいまは此処にゐる、黄色い灯影に。
  あれからどうなつたのかしらない……
あゝ、『あの時』はあゝして過ぎつゝあつた!
  碧い、噴き出す蒸気のやうに。


   2 冬の朝

それからそれがどうなつたのか……
それは僕には分らなかつた
とにかく朝霧罩めた飛行場から
機影はもう永遠に消え去つてゐた
あとには残酷な砂礫だの、雑草だの
頬を裂るやうな寒さが残つた。
――こんな残酷な空寞たる朝にも猶
人は人に笑顔を以て対さねばならないとは
なんとも情ないことに思はれるのだつたが
それなのに其処でもまた
笑ひを沢山湛へた者ほど
優越を感じてゐるのであつた。
陽は霧に光り、草葉の霜は解け、
遠くの民家に鶏は鳴いたが、
霧も光も霜も鶏も
みんな人々の心には沁まず、
人々は家に帰つて食卓についた。
     (飛行機に残つたのは僕、
      バットの空箱を蹴つてみる)


遐(とほ)い 此処(ここ) 碧(あを)い 罩(こ)めた 砂礫(されき) 裂(き)る 空寞(くうばく) 猶(なほ) 其処(そこ) 湛(たた)へ 鶏(とり) 沁(し)まず 空箱(から)
index
三歳の記憶


縁側に陽があたつてて、
樹脂が五彩に眠る時、
柿の木いつぽんある中庭は、
土は枇杷いろ 蝿が唸く。

稚厠の上に 抱えられてた、
すると尻から 蛔虫が下がつた。
その蛔虫が、稚厠の浅瀬で動くので
動くので、私は吃驚しちまつた。

あゝあ、ほんとに怖かつた
なんだか不思議に怖かつた、
それでわたしはひとしきり
ひと泣き泣いて やつたんだ。

あゝ、怖かつた怖かつた
――部屋の中は ひつそりしてゐて、
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!
隣家は空に 舞ひ去つてゐた!


樹脂(きやに) 中庭(には) 枇杷(びは) 蝿(はへ) 唸(な)く 稚厠(おかわ) 蛔虫(むし) 吃驚(びつくり) 隣家(となり)
index
六月の雨


またひとしきり 午前の雨が
菖蒲のいろの みどりいろ
眼うるめる 面長き女
たちあらはれて 消えてゆく

たちあらはれて 消えゆけば
うれひに沈み しとしとと
畠の上に 落ちてゐる
はてしもしれず 落ちてゐる

       お太鼓叩いて 笛吹いて
       あどけない子が 日曜日
       畳の上で 遊びます

       お太鼓叩いて 笛吹いて
       遊んでゐれば 雨が降る
       櫺子の外に 雨が降る


菖蒲(しやうぶ) 眼(まなこ) 女(ひと) 畠(はたけ) 太鼓(たいこ) 櫺子(れんじ)
index
雨の日


通りに雨は降りしきり、
家々の腰板古い。
もろもろの愚弄の眼は淑やかとなり、
わたくしは、花瓣の夢をみながら目を?ます。

     *

鳶色の古刀の鞘よ、
舌あまりの幼な友達、
おまへの額は四角張つてた。
わたしはおまへを思ひ出す。

     *

鑢の音よ、だみ声よ、
老い疲れたる胃袋よ、
雨の中にはとほく聞け、
やさしいやさしい唇を。

     *

煉瓦の色の憔心の
見え匿れする雨の空。
賢い少女の黒髪と、
慈父の首と懐かしい……


眼(まなこ) 淑(しと)やか 花瓣(くわべん) 鳶色(とびいろ) 鞘(さや) 鑢(やすり) 憔心(せうしん) 匿(かく)れ 賢(をかし)い 少女(をとめ) 首(かうべ)
index
春


春は土と草とに新しい汗をかゝせる。
その汗を乾かさうと、雲雀は空に隲る。
瓦屋根今朝不平がない、
長い校舎から合唱は空にあがる。

あゝ、しづかだしづかだ。
めぐり来た、これが今年の私の春だ。
むかし私の胸摶つた希望は今日を、
厳めしい紺青となつて空から私に降りかゝる。

そして私は呆気てしまふ、バカになつてしまふ
――薮かげの、小川か銀か小波か?
薮かげの小川か銀か小波か?

大きい猫が頚ふりむけてぶきつちよに
一つの鈴をころばしてゐる、
一つの鈴を、ころばして見てゐる。


隲(あが)る 摶(う)つた 厳(いか)めしい 紺青(こあを) 呆気(ほうけ)て 小波(さざなみ)
index
春の日の歌


流よ、淡き 嬌羞よ、
ながれて ゆくか 空の国?
心も とほく 散らかりて、
ヱジプト煙草 たちまよふ。

流よ、冷たき 憂ひ?め、
ながれて ゆくか 麓までも?
まだみぬ 顔の 不可思議の
咽喉の みえる あたりまで……

午睡の 夢の ふくよかに、
野原の 空の 空のうへ?
うわあ うわあと 涕くなるか

黄色い 納屋や、白の倉、
水車の みえる 彼方まで、
ながれ ながれて ゆくなるか?


流(ながれ)よ 淡(あほ)き 嬌羞(けうしう) 咽喉(のんど) 涕(な)く 彼方(かなた)
index
夏の夜


あゝ 疲れた胸の裡を
桜色の 女が通る
女が通る。

夏の夜の水田の滓、
怨恨は気が遐くなる
――盆地を繞る山は巡るか?

裸足はやさしく 砂は底だ、
開いた瞳は をいてきぼりだ、
霧の夜空は 高くて黒い。

霧の夜空は高くて黒い、
親の慈愛はどうしようもない、
――疲れた胸の裡を 花瓣が通る。

疲れた胸の裡を 花瓣が通る
ときどき銅鑼が著物に触れて。
靄はきれいだけれども、暑い!


裡(うち) 水田(すいでん) 滓(おり) 遐(とほ)く 繞(めぐ)る 裸足(らそく) 花瓣(くわべん) 銅鑼(ごんぐ) 靄(もや)
index
幼獣の歌


黒い夜草深い野にあつて、
一匹の獣が火消壷の中で
燧石を打つて、星を作つた。
冬を混ぜる 風が鳴つて。

獣はもはや、なんにも見なかつた。
カスタニエットと月光のほか
目覚ますことなき星を抱いて、
壷の中には冒涜を迎へて。

雨後らしく思ひ出は一塊となつて
風と肩を組み、波を打つた。
あゝ なまめかしい物語――
奴隷も王女と美しかれよ。

     卵殻もどきの貴公子の微笑と
     遅鈍な子供の白血球とは、
     それな獣を怖がらす。

黒い夜草深い野の中で、
一匹の獣の心は燻る。
黒い夜草深い野の中で−
太古は、独語も美しかつた!……


獣(けもの) 火消壷(ひけしつぼ) 燧石(ひうちいし) 冒涜(ぼうとく) 一塊(いつくわい) 燻(くすぶ)る 太古(むかし)
index
この小児


コボルト空に往交へば、
野に
蒼白の
この小児。

黒雲空にすぢ引けば、
この小児
搾る涙は
銀の液……

     地球が二つに割れゝばいい、
     そして片方は洋行すればいい、
     すれば私はもう片方に腰掛けて
     青空をばかり――

花崗の巌や
浜の空
み寺の屋根や
海の果て……


往交(ゆきか)へ 搾(しぼ)る 巌(いはほ)
index
冬の日の記憶


昼、寒い風の中で雀を手にとつて愛してゐた子供が、
夜になつて、急に死んだ。

次の朝は霜が降つた。
その子が兄に電報打ちに行つた。

夜になつても、母親は泣いた。
父親は、遠洋航海してゐた。

雀はどうなつたか、誰も知らなかつた。
北風は往還を白くしてゐた。

つるべの音が偶々した時、
父親からの、返電が来た。

毎日々々霜が降つた。
遠洋航海からはまだ帰れまい。

その後母親がどうしてゐるか……
電報打つた兄は、今日学校で叱られた。


偶々(たまたま)
index
秋の日


 磧づたひの 並樹の 蔭に
秋は 美し 女の 瞼
 泣きも いでなん 空の 潤み
昔の 馬の 蹄の 音よ

 長の 年月 疲れの ために
国道 いゆけば 秋は 身に沁む
 なんでも ないてば なんでも ないに
木履の 音さへ 身に沁みる

 陽は今 磧の 半分に 射し
流れを 無形の 筏は とほる
 野原は 向ふで 伏せつて ゐるが

連れだつ 友の お道化た 調子も
 不思議に 空気に 溶け 込んで
秋は 案じる くちびる 結んで


磧(かはら) 並樹(なみき) 瞼(まぶた) 潤(うる)み 蹄(ひづめ) 木履(ぼくり) 無形(むぎやう) 筏(いかだ) お道化(どけ)た
index
冷たい夜


冬の夜に
私の心が悲しんでゐる
悲しんでゐる、わけもなく……
心は錆びて、紫色をしてゐる。

丈夫な扉の向ふに、
古い日は放心してゐる。
丘の上では
棉の実が罅裂ける。

此処では薪が燻つてゐる、
その煙は、自分自らを
知つてでもゐるやうにのぼる。

誘はれるでもなく
覓めるでもなく、
私の心が燻る……


錆(さ)び 罅裂(はじ)ける 此処(ここ) 燻(くすぶ)つて 覓(もと)める
index
冬の明け方


残んの雪が瓦に少なく固く
枯木の小枝が鹿のやうに睡い、
冬の朝の六時
私の頭も睡い。

鳥が啼いて通る――
庭の地面も鹿のやうに睡い。
――林が逃げた農家が逃げた、
空は悲しい衰弱。
     私の心は悲しい……

やがて薄日が射し
青空が開く。
上の上の空でジュピタ−神の砲が鳴る。
――四方の山が沈み、

農家の庭が欠伸をし、
道は空へと挨拶する。
     私の心は悲しい……


睡(めむ)い 開(あ)く 砲(ひづつ) 四方(よも) 欠伸(あくび)
index
いたる者をして
      ――「空しき秋」第十二


老いたる者をして静謐の裡にあらしめよ
そは彼等こころゆくまで悔いんためなり

吾は悔いんことを欲す
こころゆくまで悔ゆるは洵に魂を休むればなり

あゝ はてしもなく涕かんことこそ望ましけれ
父も母も兄弟も友も、はた見知らざる人々をも忘れて

東明の空の如く丘々をわたりゆく夕べの風の如く
はたなびく小旗の如く涕かんかな

或はまた別れの言葉の、こだまし、雲に入り、野末にひびき
海の上の風にまじりてとことはに過ぎゆく如く……


   反 歌

あゝ 吾等怯懦のために長き間、いとも長き間
徒なることにかゝらひて、涕くことを忘れゐたりしよ、げに忘れゐたりしよ……

    〔空しき秋二十数篇は散佚して今はなし。その第十二のみ、
     諸井三郎の作曲によりて残りしものなり。〕


静謐(せいひつ) 裡(うち) 洵(まこと)に 魂(たま) 涕(な)かん 兄弟(はらから) 東明(しののめ) 或(ある)は 上(へ) 怯懦(けふだ)
index
湖 上


ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう。
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。

沖に出たらば暗いでせう、
櫂から滴垂る水の音は
昵懇しいものに聞こえませう、
――あなたの言葉の杜切れ間を。

月は聴き耳立てるでせう、
すこしは降りても来るでせう、
われら接唇する時に
月は頭上にあるでせう。

あなたはなほも、語るでせう、
よしないことや拗言や、
洩らさず私は聴くでせう、
――けれど漕ぐ手はやめないで。

ポッカリ月が出ましたら、
舟を浮べて出掛けませう、
波はヒタヒタ打つでせう、
風も少しはあるでせう。


櫂(かい) 滴垂(したた)る 昵懇(ちか)しい 杜切(とぎ)れ 接唇(くちづけ) 拗言(すねごと)
index
冬の夜


みなさん今夜は静かです
薬鑵の音がしてゐます
僕は女を想つてる
僕には女がないのです

それで苦労もないのです
えもいはれない弾力の
空気のやうな空想に
女を描いてみてゐるのです

えもいはれない弾力の
澄み亙つたる夜の沈黙
薬鑵の音を聞きながら
女を夢みてゐるのです

かくて夜は更け夜は深まつて
犬のみ覚めたる冬の夜は
影と煙草と僕と犬
えもいはれないカクテ−ルです

   2

空気よりよいものはないのです
それも寒い夜の室内の空気よりもよいものはないのです
煙よりよいものはないのです
煙より 愉快なものもないのです
やがてはそれがお分りなのです
同感なさる時が 来るのです

空気よりよいものはないのです
寒い夜の痩せた年増女の手のやうな
その手の弾力のやうな やはらかい またかたい
かたいやうな その手の弾力のやうな
煙のやうな その女の情熱のやうな
炎えるやうな 消えるやうな

冬の夜の室内の 空気よりよいものはないのです


薬鑵(やくわん) 亙(わた)つた 沈黙(しじま) 更(ふ)け 年増女(としま) 炎(も)える
index
秋の消息


麻は朝、人の肌に追い縋り
雀らの、声も硬うはなりました
煙突の、煙は風に乱れ散り

火山灰掘れば氷のある如く
けざやけき■気(かうき)の底に青空は
冷たく沈み、しみじみと

教会堂の石段に
日向ぼつこをしてあれば
陽光に廻る花々や
物陰に、すずろすだける虫の音や

秋の日は、からだに暖か
手や足に、ひえびえとして
此の日頃、広告気球は新宿の
空に揚りて漂へり


肌(はだへ) 縋(すが)り 陽光(ひかり) 廻(めぐ)る 音(ね)
index
骨


ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きてゐた時の苦労にみちた
あのけがらはしい肉を破つて、
しらじらと雨に洗はれ、
ヌックと出た、骨の尖。

それは光沢もない、
ただいたづらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きてゐた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐つてゐたこともある、
みつばのおしたしを食つたこともある、
と思へばなんとも可笑しい。

ホラホラ、これが僕の骨――
見てゐるのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残つて、
また骨の処にやつて来て、
見てゐるのかしら?

故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立つて、
見てゐるのは、――僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがつてゐる。


尖(さき) 可笑(をか)しい 故郷(ふるさと) 恰度(ちやうど)
index
秋日狂乱


僕にはもはや何もないのだ
僕は空手空拳だ
おまけにそれを嘆きもしない
僕はいよいよの無一物だ

それにしても今日は好いお天気で
さつきから沢山の飛行機が飛んでゐる
――欧羅巴は戦争を起すのか起さないのか
誰がそんなこと分るものか

今日はほんとに好いお天気で
空の青も涙にうるんでゐる
ポプラがヒラヒラヒラヒラしてゐて
子供等は先刻昇天した

もはや地上には日向ぼつこをしてゐる
月給取の妻君とデ−デ−屋さん以外にゐない
デ−デ−屋さんの叩く鼓の音が
明るい廃墟を唯独りで讃美し廻つてゐる

あゝ、誰か来て僕を助けて呉れ
ヂォゲネスの頃には小鳥くらゐ啼いたらうが
けふびは雀も啼いてはをらぬ
地上に落ちた物影でさへ、はや余りに淡い!

――さるにても田舎のお嬢さんは何処に去つたか
その紫の押花はもうにじまないのか
草の上には陽は照らぬのか
昇天の幻想だにもはやないのか?

僕は何を云つてゐるのか
如何なる錯乱に掠められてゐるのか
蝶々はどつちへとんでいつたか
今は春でなくて、秋であつたか

ではあゝ、濃いシロップでも飲まう
冷たくして、太いストロ−で飲まう
とろとろと、脇見もしないで飲まう
何にも、何にも、求めまい!……


欧羅巴(ヨーロツパ) 先刻(せんこく) 唯(ただ) 淡(あは)い 何処(どこ) 去(い)つた 押花(おしばな) 如何(いか) 掠(かす)め
index
朝鮮女


朝鮮女の服の紐
秋の風にや縒れたらん
街道を往くをりをりは
子供の手をば無理に引き
額顰めし汝が面ぞ
肌赤銅の乾物にて
なにを思へるその顔ぞ
――まことやわれもうらぶれし
こころに呆け見ゐたりけむ
われを打見ていぶかりて
子供うながし去りゆけり……
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや
軽く立ちたる埃かも
何をかわれに思へとや……
・・・・・・・・・・・


女(をんな) 縒(よ)れ 顰(しか)め 汝(な) 面(おも) 呆(ほう)け 埃(ほこり)
index
夏の夜に覚めてみた夢


眠らうとして目をば閉ぢると
真ッ暗なグランドの上に
その日昼みた野球のナインの
ユニホ−ムばかりほのかに白く――

ナインは各々守備位置にあり
狡さうなピッチャは相も変らず
お調子者のセカンドは
相も変らぬお調子ぶりの

扨、待つてゐるヒットは出なく
やれやれと思つてゐると
ナインも打者も悉く消え
人ッ子一人ゐはしないグランドは

忽ち暑い真昼のグランド
グランド繞るポプラ並木は
蒼々として葉をひるがへし
ひときはつづく蝉しぐれ
やれやれと思つてゐるうち……眠た


狡(ずる) 扨(さて) 悉(ことごと)く 忽(たちま)ち 真昼(ひる) 繞(めぐ)る 並木(なみき) 眠(ね)た
index
春と赤ン坊


菜の花畑で眠つてゐるのは……
菜の花畑で吹かれてゐるのは……
赤ン坊ではないでせうか?

いいえ、空で鳴るのは、電線です電線です
ひねもす、空で鳴るのは、あれは電線です
菜の花畑に眠つてゐるのは、赤ン坊ですけど

走つてゆくのは、自転車々々々
向ふの道を、走つてゆくのは
薄桃色の、風を切つて……

薄桃色の、風を切つて
走つてゆくのは菜の花畑や空の白雲
――赤ン坊を畑に置いて


白雲(しろくも)
index
雲 雀


ひねもす空で鳴りますは
あゝ 電線だ、電線だ
ひねもす空で啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

碧い 碧い空の中
ぐるぐるぐると 潜りこみ
ピ−チクチクと啼きますは
あゝ 雲の子だ、雲雀奴だ

歩いてゆくのは菜の花畑
地平の方へ、地平の方へ
歩いてゆくのはあの山この山
あ−をい あ−をい空の下

眠つてゐるのは、菜の花畑に
菜の花畑に、眠つてゐるのは
菜の花畑で風に吹かれて
眠つてゐるのは赤ン坊だ?


雲雀奴(ひばりめ) 碧(あーを)い 潜(もぐ)り
index
初夏の夜


また今年も夏が来て、
夜は、蒸気で出来た白熊が、
沼をわたつてやつてくる。
――色々のことがあつたんです。
色々のことをして来たものです。
嬉しいことも、あつたのですが、
回想されては、すべてがかなしい
鉄製の、軋音さながら
なべては夕暮迫るけはひに
幼年も、老年も、青年も壮年も、
共々に余りに可憐な声をばあげて、
薄暮の中で舞ふ蛾の下で
はかなくも可憐な顎をしてゐるのです。
されば今夜六月の良夜なりとはいへ、
遠いい物音が、心地よく風に送られて来るとはいへ、
なにがなし悲しい思ひであるのは、
消えたばかしの鉄橋の響音、
大河の、その鉄橋の上方に、空はぼんやりと石盤色であるのです。


今年(こんねん) 軋音(あつおん) 顎(あご) 今夜(こんや) 良夜(あたらよ) 大河(おほかわ)
index
北の海


海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にゐるのは、
あれは、浪ばかり。

曇つた北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪つてゐるのです。
いつはてるとも知れない呪。

海にゐるのは、
あれは人魚ではないのです。
あれは、浪ばかり。


呪(のろ)つて
index
頑是ない歌


思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いづこ

雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にゐた

それから何年経つことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ


湯気(ゆげ) 竦然(しよぜん) 夜(よる) 我(が)ン張(ば)る 性質(さが) 畢竟(ひつきやう)
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閑 寂


なんにも訪ふことのない、
私の心は閑寂だ。
    それは日曜日の渡り廊下、
    ――みんなは野原へ行つちやつた。

板は冷たい光沢をもち、
小鳥は庭に啼いてゐる。
    締めの足りない水道の、
    蛇口の滴は、つと光り!

土は薔薇色、空には雲雀
空はきれいな四月です。
    なんにも訪ふことのない、
    私の心は閑寂だ。


訪(おとな) 光沢(つや) 啼(な)いて 滴(しづく) 薔薇色(ばらいろ) 雲雀(ひばり)
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お道化うた


月の光のそのことを、
盲目少女に教へたは、
ベ−ト−ヹンか、シュ−バ−ト?
俺の記憶の錯覚が、
今夜とちれてゐるけれど、
ベトちやんだとは思ふけど、
シュバちやんではなかつたらうか?

霧の降つたる秋の夜に、
庭・石段に腰掛けて、
月の光を浴びながら、
二人、黙つてゐたけれど、
やがてピアノの部屋に入り、
泣かんばかりに弾き出した、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

かすむ街の灯とほに見て、
ウヰンの市の郊外に、
星も降るよなその夜さ一と夜、
虫、草叢にすだく頃、
教師の息子の十三番目、
頚の短いあの男、
盲目少女の手をとるやうに、
ピアノの上に勢ひ込んだ、
汗の出さうなその額、
安物くさいその眼鏡、
丸い背中もいぢらしく
吐き出すやうに弾いたのは、
あれは、シュバちやんではなかつたらうか?

シュバちやんかベトちやんか、
そんなこと、いざ知らね、
今宵星降る東京の夜(よる)、
ビ−ルのコップを傾けて、
月の光を見てあれば、
ベトちやんもシュバちやんも、はやとほに死に、
はやとほに死んだことさへ、
誰知らうことわりもない……


盲目少女(めくらむすめ) 市(まち) 草叢(くさむら) 夜(よる)
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思ひ出


お天気の日の、海の沖は
なんと、あんなに綺麗なんだ!
お天気の日の、海の沖は
まるで、金や、銀ではないか

金や銀の沖の波に、
ひかれひかれて、岬の端に
やつて来たれど金や銀は
なほもとほのき、沖で光つた。

岬の端には煉瓦工場が、
工場の庭には煉瓦干されて、
煉瓦干されて赫々してゐた
しかも工場は、音とてなかつた

煉瓦工場に、腰をば据えて、
私は暫く煙草を吹かした。
煙草吹かしてぼんやりしてると、
沖の方では波が鳴つてた。

沖の方では波が鳴らうと、
私はかまはずぼんやりしてゐた。
ぼんやりしてると頭も胸も
ポカポカポカポカ暖かだつた

ポカポカポカポカ暖かだつたよ
岬の工場は春の陽をうけ、
煉瓦工場は音とてもなく
裏の木立で鳥が啼いてた

鳥が啼いても煉瓦工場は、
ビクともしないでジツとしてゐた
鳥が啼いても煉瓦工場の、
窓の硝子は陽をうけてゐた

窓の硝子は陽をうけてても
ちつとも暖かさうではなかつた
春のはじめのお天気の日の
岬の端の煉瓦工場よ!

        *           *
              *           *

煉瓦工場は、その後廃(すた)れて、
煉瓦工場は、死んでしまつた
煉瓦工場の、窓も硝子も、
今は毀れてゐようといふもの

煉瓦工場は、廃れて枯れて、
木立の前に、今もぼんやり
木立に鳥は、今も啼くけど
煉瓦工場は、朽ちてゆくだけ

沖の波は、今も鳴るけど
庭の土には、陽が照るけれど
煉瓦工場に、人夫は来ない
煉瓦工場に、僕も行かない

嘗て煙を、吐いてた煙突も、
今はぶきみに、ただ立つてゐる
雨の降る日は、殊にもぶきみ
晴れた日だとて、相当ぶきみ

相当ぶきみな、煙突でさへ
今ぢやどうさへ、手出しも出来ず
この尨大な、古強者が
時々恨む、その眼は怖い

その眼は怖くて、今日も僕は
浜へ出て来て、石に腰掛け
ぼんやり俯き、案じてゐれば
僕の胸さへ、波を打つのだ


岬(みさき) 赫々(あかあか) 啼(な)いて 硝子(ガラス) 廃(すた)れて 毀(こは)れて 尨大(ぼうだい) 古強者(ふるつはもの) 俯(うつむ)き
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残 暑


畳の上に、寝ころばう、
蝿はブンブン 唸つてる
畳ももはや 黄色くなつたと
今朝がた 云つてゐたつけ

それやこれやと とりとめもなく
僕の頭に 記憶は浮かび
浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち
いつしか 僕は眠つてゐたのだ

覚めたのは 夕方ちかく
まだかなかなは 啼いてたけれど
樹々の梢は 陽を受けてたけど、
僕は庭木に 打水やつた

    打水が、樹々の下枝の葉の尖に
    光つてゐるのをいつまでも、僕は見てゐた


蝿(はへ) 啼(な)いて 下枝(しずえ) 尖(さき)
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除夜の鐘


除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜の空気を顫はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。

それは寺院の森の霧つた空……
そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。
それは寺院の森の霧つた空……

その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出、
その時子供は父母の膝下で蕎麦を食うべ。

その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。
その時囚人は、どんな心持だらう、どんな心持だらう、
その時銀座はいつぱいの人出、浅草もいつぱいの人出。

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。
千万年も、古びた夜の空気を顫はし、
除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。


夜(よる) 顫(ふる)はし 霧(きら)つた 膝下(ひざもと) 蕎麦(そば)
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雪の賦


雪が降るとこのわたくしには、人生が、
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。

その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、
大高源吾の頃にも降つた……

幾多々々の孤児の手は、
そのためにかじかんで、
都会の夕べはそのために十分悲しくあつたのだ。

ロシアの田舎の別荘の、
矢来の彼方に見る雪は、
うんざりする程永遠で、

雪の降る日は高貴の夫人も、
ちつとは愚痴でもあらうと思はれ……

雪が降るとこのわたくしには、人生が
かなしくもうつくしいものに――
憂愁にみちたものに、思へるのであつた。


大高源吾(おほたかげんご) 幾多(あまた) 彼方(かなた) 程(ほど)
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わが半生


私は随分苦労して来た。
それがどうした苦労であつたか、
語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。
またその苦労が果して価値の
あつたものかなかつたものか、
そんなことなぞ考へてもみぬ。

とにかく私は苦労して来た。
苦労して来たことであつた!
そして、今、此処、机の前の、
自分を見出すばつかりだ。
じつと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。

   外では今宵、木の葉がそよぐ。
   はるかな気持の、春の宵だ。
   そして私は、静かに死ぬる、
   坐つたまんまで、死んでゆくのだ。


外(そと) 今宵(こよい)
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独身者


石鹸箱には秋風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた

――彼は独身者であつた
彼は極度の近眼であつた
彼はよそゆきを普段に着てゐた
判屋奉公したこともあつた

今しも彼が湯屋から出て来る
薄日の射してる午後の三時
石鹸箱には風が吹き
郊外と、市街を限る路の上には
大原女が一人歩いてゐた


石鹸箱(せつけんばこ) 大原女(おほはらめ) 独身者(どくしんもの)
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春宵感懐


雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。

なんだか、深い、溜息が、
 なんだかはるかな、幻想が、
湧くけど、それは、掴めない。
 誰にも、それは、語れない。

誰にも、それは、語れない
 ことだけれども、それこそが、
いのちだらうぢやないですか、
 けれども、それは、示かせない……

かくて、人間、ひとりびとり、
 こころで感じて、顔見合せれば
につこり笑ふといふほどの
 ことして、一生、過ぎるんですねぇ

雨が、あがつて、風が吹く。
 雲が、流れる、月かくす。
みなさん、今夜は、春の宵。
 なまあつたかい、風が吹く。


宵(よひ) 掴(つか)め 示(あ)かせ
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曇天


 ある朝 僕は 空の 中に、
黒い 旗が はためくを 見た。
 はたはた それは はためいて ゐたが、
音は きこえぬ 高きが ゆゑに。

 手繰り 下ろさうと 僕は したが、
綱も なければ それも 叶はず、
 旗は はたはた はためく ばかり、
空の 奥処に 舞ひ入る 如く。

 かかる 朝を 少年の 日も、
屡々 見たりと 僕は 憶ふ。
 かの時は そを 野原の 上に、
今はた 都会の 甍の 上に。

 かの時 この時 時は 隔つれ、
此処と 彼処と 所は 異れ、
 はたはた はたはた み空に ひとり、
いまも 渝らぬ かの 黒旗よ。


叶(かな)はず 奥処(をくが) 朝(あした) 屡々(しばしば) 憶(おも)ふ 甍(いらか) 此処(ここ) 彼処(かしこ) 渝(かは)らぬ
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蜻蛉に寄す


あんまり晴れてる 秋の空
赤い蜻蛉が 飛んでゐる
淡い夕陽を 浴びながら
僕は野原に 立つてゐる

遠くに工場の 煙突が
夕陽にかすんで みえてゐる
大きな溜息 一つついて
僕は蹲んで 石を拾ふ

その石くれの 冷たさが
漸く手中で ぬくもると
僕は放して 今度は草を
夕陽を浴びてる 草を抜く

抜かれた草は 土の上で
ほのかほのかに 萎えてゆく
遠くに工場の 煙突は
夕陽に霞んで みえてゐる


蜻蛉(とんぼ) 淡(あは)い 蹲(しやが)んで 手中(しゆちう) 放(ほか)して 萎(な)えて 霞(かす)んで
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