永訣の秋 ゆきてかへらぬ 一つのメルヘン 幻 影 あばずれ女の亭主が歌つた 言葉なき歌 月夜の浜辺 また来ん春…… 月の光 その一 月の光 その二 |
村の時計 或る男の肖像 冬の長門峡 米 子 正 午 春日狂想 蛙 声 後 記 |
ゆきてかへらぬ ――京 都――
僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒ぎ、風は花々揺つてゐた。
木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々と、風車を付けた乳母車、 いつも街上に停つてゐた。
棲む人達は子供等は、街上に見えず、僕に一人の縁者なく、 風信機の上の空の色、時々見るのが仕事であつた。
さりとて退屈してもゐず、空気の中には蜜があり、物体でないその蜜は、 常住食すに適してゐた。
煙草くらゐは喫つてもみたが、それとて匂ひを好んだばかり。おまけに僕とし たことが、戸外でしか吹かさなかつた。
さてわが親しき所有品は、タオル一本。枕は持つてゐたとはいへ、 布団ときたらば影だになく、歯刷子くらゐは持つてもゐたが、 たつた一冊ある本は、中に何も書いてはなく、時々手にとりその目方、 たのしむだけのものだつた。
女たちは、げに慕はしいのではあつたが、一度とて、 会ひに行かうとは思はなかつた。夢みるだけで沢山だつた。
名状しがたい何物かゞ、たえず僕をば促進し、目的もない僕ながら、希望は胸 に高鳴つてゐた。
* * *
林の中には、世にも不思議な公園があつて、不気味な程にもにこやかな、 女や子供、男達散歩していて、僕に分らぬ言語を話し、僕に分らぬ感情を、 表情してゐた。
さてその空には銀色に、蜘蛛の巣が光り輝いてゐた。
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洒(そそ)ぎ 揺(ゆす)つて 赫々(あかあか) 乳母車(うばぐるま) 風信機(かざみ) 停(とま)つて 縁者(みより) 風信機(かざみ) 所有品(もちもの) 布団(ふとん) 歯刷子(はぶらし) 蜘蛛(くも)
一つのメルヘン 秋の夜は、はるかの彼方に、 小石ばかりの、河原があつて、 それに陽は、さらさらと さらさらと射してゐるのでありました。 陽といつても、まるで硅石か何かのやうで、 非常な個体の粉末のやうで、 さればこそ、さらさらと かすかな音を立ててもゐるのでした。 さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、 淡い、それでゐてくつきりとした 影を落としてゐるのでした。 やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、 今迄流れてもゐなかつた川床に、水は さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました……index
彼方(かなた) 硅石(けいせき)
幻 影 私の頭の中には、いつの頃からか、 薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、 それは、紗の服なんかを着込んで、 そして、月光を浴びてゐるのでした。 ともすると、弱々しげな手付をして、 しきりと 手真似をするのでしたが、 その意味が、つひぞ通じたためしはなく、 あわれげな 思ひをさせるばつかりでした。 手真似につれては、唇も動かしてゐるのでしたが、 古い影絵でも見てゐるやう―― 音はちつともしないのですし、 何を云つてるのかは 分りませんでした。 しろじろと身に月光を浴び、 あやしくもあかるい霧の中で、 かすかな姿態をゆるやかに動かしながら、 眼付ばかりはどこまでも、やさしさうなのでした。index
紗(しや) 唇(くち)
あばずれ女の亭主が歌つた おまへはおれを愛してる、一度とて おれを憎んだためしはない。 おれもおまへを愛してる。前世から さだまつていることのやう。 そして二人の魂は、不識に温和に愛し合ふ もう長年の習慣だ。 それなのにまた二人には、 ひどく浮気な心があつて、 いちばん自然な愛の気持を、 時にうるさく思ふのだ。 佳い香水のかほりより、 病院の、あはい匂ひに慕ひよる。 そこでいちばん親しい二人が、 時にいちばん憎みあふ。 そしてあとでは得態の知れない 悔の気持に浸るのだ。 あゝ、二人には浮気があつて、 それが真実を見えなくしちまふ。 佳い香水のかほりより、 病院の、あはい匂ひに慕ひよる。index
不識(しらず) 得態(えたい) 真実(ほんと)
言葉なき歌 あれはとほいい処にあるのだけれど おれは此処で待つてゐなくてはならない 此処は空気もかすかで蒼く 葱の根のやうに仄かに淡い 決して急いではならない 此処で十分待つてゐなければならない 処女の眼のやうに遥かを見遣つてはならない たしかに此処で待つてゐればよい それにしてもあれはとほいい彼方で夕陽にけぶつてゐた 号笛の音のやうに太くて繊弱だつた けれどもその方へ駆け出してはならない たしかに此処で待つてゐなければならない さうすればそのうち喘ぎも平静に復し たしかにあすこまでゆけるに違ひない しかしあれは煙突の煙のやうに とほくとほく いつまでも茜の空にたなびいてゐたindex
此処(ここ) 蒼(あを)く 葱(ねぎ) 仄(ほの)か 淡(あは)い 処女(むすめ) 眼(め) 見遣(みや)つて 彼方(かなた) 号笛(フイトル) 音(ね) 喘(あへ)ぎ 茜(あかね)
月夜の浜辺 月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際に、落ちてゐた。 それを拾つて、役立てようと 僕は思つたわけでもないが なぜだかそれを捨てるに忍びず 僕はそれを、袂に入れた。 月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際に、落ちてゐた。 それを拾つて、役立てようと 僕は思つたわけでもないが 月に向つてそれは抛れず 浪に向つてそれは抛れず 僕はそれを、袂に入れた。 月夜の晩に、拾つたボタンは 指先に沁み、心に沁みた。 月夜の晩に、拾つたボタンは どうしてそれが、捨てられようか?index
袂(たもと) 抛(ほふ)れず 沁(し)み
また来ん春…… また来ん春と人は云ふ しかし私は辛いのだ 春が来たつて何になろ あの子が返つて来るぢやない おもへば今年の五月には おまへを抱いて動物園 象を見せても猫といひ 鳥を見せても猫だつた 最後に見せた鹿だけは 角によつぽど惹かれてか 何とも云はず 眺めてた ほんにおまへもあの時は 此の世の光のたゞ中に 立つて眺めてゐたつけが……index
猫(にやあ)
月の光 その一 月の光が照つてゐた 月の光が照つてゐた お庭の隅の草叢に 隠れてゐるのは死んだ児だ 月の光が照つてゐた 月の光が照つてゐた おや、チルシスとアマントが 芝生の上に出て来てる ギタアを持つては来てゐるが おつぽり出してあるばかり 月の光が照つてゐた 月の光が照つてゐたindex
草叢(くさむら)
月の光 その二 おゝチルシスとアマントが 庭に出て来て遊んでる ほんに今夜は春の宵 なまあつたかい靄もある 月の光に照らされて 庭のベンチの上にゐる ギタアがそばにはあるけれど いつこう弾き出しさうもない 芝生のむかふは森でして とても黒々してゐます おゝチルシスとアマントが こそこそ話してゐる間 森の中では死んだ子が 蛍のやうに蹲んでるindex
宵(よひ) 靄(もや) 蹲(しやが)んで
村の時計 村の大きな時計は、 ひねもす動いてゐた その字板のペンキは、 もう艶が消えてゐた 近寄つてみると、 小さなひびが沢山にあるのだつた それで夕陽が当つてさへが、 おとなしい色をしてゐた 時を打つ前には、 ぜいぜいと鳴つた 字板が鳴るのか中の機械が鳴るのか 僕にも誰にも分らなかつたindex
艶(つや)
或る男の肖像 1 洋行帰りのその洒落者は、 齢をとつても髪に緑の油をつけてた。 夜毎喫茶店にあらはれて、 其処の主人と話してゐる様はあはれげであつた。 死んだと聞いてはいつさうあはれであつた。 2 ――幻滅は鋼のいろ。 髪毛の艶と、ラムプの金との夕まぐれ 庭に向つて、開け放たれた戸口から、 彼は戸外に出て行つた。 剃りたての、頚条も手頚も どこもかしこもそわそわと、 寒かつた。 開け放たれた戸口から 悔恨は、風と一緒に容赦なく 吹込んでゐた。 読書も、しむみりした恋も、 あたたかいお茶も黄昏の空とともに 風とともにもう其処にはなかつた。 3 彼女は 壁の中へ這入つてしまつた。 それで彼は独り、 部屋で卓子を拭いてゐた。index
洒落者 齢(とし) 其処 様(さま) 鋼(はがね) 艶(つや) 頚条(うなじ) 手頚(てくび) 黄昏(たそがれ) 這入(はひ)つて 卓子(テーブル)
冬の長門峡 長門峡に、水は流れてありにけり。 寒い寒い日なりき。 われは料亭にありぬ。 酒酌みてありぬ。 われのほか別に、 客とてもなかりけり。 水は、恰も魂あるものの如く、 流れ流れてありにけり。 やがても密柑の如き夕陽、 欄干にこぼれたり。 あゝ! ――そのやうな時もありき、 寒い寒い 日なりき。index
酌(く)み 恰(あたか)も 密柑(みかん)→蜜柑 欄干(らんかん)
米 子 二十八歳のその処女は、 肺病やみで、腓は細かつた。 ポフラのやうに、人も通らぬ 歩道に沿つて、立つてゐた。 処女の名前は、米子と云つた。 夏には、顔が、汚れてみえたが、 冬だの秋には、きれいであつた。 ――かぼそい声をしてをつた。 二十八歳のその処女は、 お嫁に行けば、その病気は、 癒るかに思はれた。と、さう思ひながら 私はたびたび処女をみた…… しかし一度も、さうと口には出さなかつた。 別に、云ひ出しにくいからといふのでもない 云つて却つて、落胆させてはと思つたからでもない、 なぜかしら、云はずじまひであつたのだ。 二十八歳のその処女は、 歩道に沿つて、立つてゐた、 雨あがりの午後、ポプラのやうに。 ――かぼそい声をもう一度、聞いてみたいと思ふのだ……index
処女(むすめ) 腓(ひ) 癒(なほ)る 却(かへ)つて
正 午 丸ビル風景 あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ 月給取の午休み、ぷらりぷらりと手を振つて あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ 大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口 空はひろびろ薄曇り、薄曇り、埃りも少々立つてゐる ひよんな眼付で見上げても、眼を落としても…… なんのおのれが桜かな、桜かな桜かな あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ 大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな小ッちやな出入口 空吹く風にサイレンは、響き響きて消えてゆくかなindex
春日狂想 1 愛するものが死んだ時には、 自殺しなけあなりません。 愛するものが死んだ時には、 それより他に、方法がない。 けれどもそれでも、業(?)が深くて、 なほもながらふことともなったら、 奉仕の気持に、なることなんです。 奉仕の気持に、なることなんです。 愛するものは、死んだのですから、 たしかにそれは、死んだのですから、 もはやどうにも、ならぬのですから、 そのもののために、そのもののために、 奉仕の気持に、ならなけあならない。 奉仕の気持に、ならなけあならない。 2 奉仕の気持になりにはなったが、 さて格別の、ことも出来ない。 そこで以前より、本なら熟読。 そこで以前より、人には丁寧。 テムポ正しき散歩をなして 麦稈真田を敬虔に編み―― まるでこれでは、玩具の兵隊、 まるでこれでは、毎日、日曜。 神社の日向を、ゆるゆる歩み、 知人に遇へば、にっこり致し、 飴売爺々と、仲よしになり、 鳩に豆なぞ、パラパラ撒いて、 まぶしくなったら、日蔭に這入り、 そこで地面や草木を見直す。 苔はまことに、ひんやりいたし、 いはうやうなき、今日の麗日。 参詣人等もぞろぞろ歩き、 わたしは、なんにも腹が立たない。 ((まことに人生、一瞬の夢、 ゴム風船の、美しさかな。)) 空に昇って、光って、消えて―― やあ、今日は、御機嫌いかが。 久しぶりだね、その後どうです。 そこらの何処かで、お茶でも飲みましよ。 勇んで茶店に這入りはすれど、 ところで話は、とかくないもの。 煙草なんぞを、くさくさ吹かし、 名状しがたい覚悟をなして、―― 戸外はまことに賑やかなこと! ――ではまたそのうち、奥さんによろしく、 外国に行ったら、たよりを下さい。 あんまりお酒は、飲まんがいいよ。 馬車も通れば、電車も通る。 まことに人生、花嫁御寮。 まぶしく、美しく、はた俯いて、 話をさせたら、でもうんざりか? それでも心をポーッとさせる、 まことに、人生、花嫁御寮。 3 ではみなさん、 喜び過ぎず悲しみ過ぎず、 テムポ正しく、握手をしませう。 つまり、我等に欠けてるものは、 実直なんぞと、心得まして。 ハイ、ではみなさん、ハイ、ご一緒に―― テムポ正しく、握手をしませう。index
業(ごふ) 以前(せん) 麦稈真田(ばくかんさなだ) 敬虔(けいけん) 玩具(おもちゃ) 遇(あ)へ 飴売爺々(あめうりぢぢい) 這入(はひ)り 何処(どこ) 戸外(そと) 外国(あっち) 美(は)しく 俯(うつむ)いて
蛙 声 天は地を蓋ひ、 そして、地には偶々池がある。 その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く…… ――あれは、何を鳴いてるのであらう? その声は、空より来り、 空へと去るのであらう? 天は地を蓋ひ、 そして蛙声は水面に走る。 よし此の地方が湿潤に過ぎるとしても、 疲れたる我等が心のためには、 柱は猶、余りに乾いたものと感はれ、 頭は重く、肩は凝るのだ。 さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、 その声は水面に走つて暗雲に迫る。index
蓋(おほ)ひ 偶々(たまたま) 地方(くに) 猶(なほ) 感(おも)はれ
後 記茲に収めたのは、『山羊の歌』以後に発表したものの過半数である。 作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、 最も新しいのでは昭和十二年のものがある。 序でだから云ふが、 『山羊の歌』には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収めた。
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茲(ここ) 序(つい)で 既(すで)に 尠(すく)くない 扨(さて)