音楽を今まで続けてきた、といってもまだまだ短いのだが、 その理由は音楽を演奏している自分が一番裸の自分になれる感じがして、自分を再認識出来るからだ。 でも、演奏中の自分の感情は解からない。瞬間瞬間では感覚が微かに残っているのだが、 殆どが漠然としか覚えていない。すぐに消え去ってしまうのだ。 もしかしたら、般若心経などに出てくる空の思想はこれなのかとふと思った。 最近はこの事についてボーっと考えていることが多い。
人は物事を考えたり、意見を言ったりする時、必ず自分という物を固定の物として思考を働かせる。 今、文章を書いている自分もまたこれに他ならない。 絶えず世界は変化しているのに、自分の事になると、自分は変わらぬ物として自分以外の物や現象を捉えてしまう。 季節は移り変わり、出会いがあり別れがあり、誕生があり死がある。その中に自分があり、自分もどんどん変わっていく。 その関係の中に自分が存在するだけで、自分とは本当は何もないものなのかもしれない。 他との関係を全て断って「自分は?」と説いてみても解からないのである。
夜の帰り道、人通りのない道を歩いていると、一人ぼっちという感覚に襲われる。 そんな時、いろいろ関係により成り立っている「自分」という物を考えてみる。 今歩いている道の周りには家がたくさん建っている。 この家の塀や壁を誰かが作っている。今歩いている道も誰かが作ってくれている。 ふと見上げると梅の花が咲いていて心を和ましてくれる。風が吹き花弁が宙に舞う。 自分の脇を花弁が舞う。耳をすますと新宿の方角から騒音が聞える。 いろいろな関係に思いを寄せると、その無限な量の関係の一部分が見えてくる。 そうすると、自分という物がふと透明に思えてくる。 すうっと、自分が引いていく。時間の感覚や、自分の大きさの感覚が薄らいでいく。 肩から力が抜けて、なんとも平常な気持になってくる。 本来の「自分」とは此れなのか。
「およそ、罪業の大海も、すべて君の気まぐれが生んだ、空さわぎにすぎぬ。 罪業を懺悔(告白)しようとするなら、姿勢をただして、本体の自己にかえることだ」
これこそ、最高の懺悔とよばれる。三つの根本煩悩、対象を追いかける妄想、 大小の意識分別は、すべて片づく。仏を観察して、心の統一を持続すると、 自己はたちまち清浄にかえり、およそ対象を念ずることはない。 『大品経』に、こういうのがある。<何ものも念じないのを、仏を念ずる人とよぶ>と。 どういうところが、何も念じないのであるかといえば、仏を念ずる心そのものを、何ものも念じないという。 心のほかに別に仏があるわけでないし、仏のほかに別に心があるわけでもない。 仏を念ずるのは、心を念ずることであり、心を求めるのは、仏を求めることである。 どうしてかといえば、意識には特定の形がないし、仏には特定の顔がないからである。 若しもこの道理が判れば、それが安心であり、つねに仏を思い念じて、対象を追う妄想ははたらかず、 ひっそりとして特定の姿がなくなり、平等不二である。
『観普賢経』より
汝自身の恐怖とおののきを生み出しているものの本体をじっと凝視するがよい。 いかなる性質のものということのできない、空なるものが見えるであろう。 これが<法身>というものである。この空なるものは、また、単にのっぺりとしたものではないのである。 ≪空なるものの本質は恐ろしい≫と考える意識は、正確で鋭敏なものと言わなければならない。 これこそ<報身>の意識の状態なのである。
空性と明晰性の二つが組み合わさって離れない。空なるものの本質は明晰であり、 明晰であるものの本質は空なるものである。 明晰であり空であることが不可分となっている意識は、赤裸々で生のむきだしの状態のものである。 あるがまま、自然のままで無造作の状態のものである。 これこそ本質を構成する<自性身>にほかならない。 そしてまた、この自性身自体の働きは、他に妨害されることがなくて、 何にでも現れることができる。 それが慈悲を本質をする<化身>なのである。
『チベットの死者の書』 川崎信定訳 より